Anthropicは中国本土をClaudeの提供地域に含めていません。それにもかかわらず、中国では「中转站(中継所・Transfer Station)」と呼ばれる非公式APIプロキシを経由し、ClaudeやClaude Codeなどの海外AIモデルを利用する市場が形成されています。しかも一部では、公式API料金のわずか5~10%程度という異常な安値でアクセスが販売されています。これは単なる「中国からClaudeを使う裏技」という話ではありません。その背後には、AIアカウントの大量調達、SMS認証、決済、本人確認、API中継、再販、さらには利用ログの収集までを分業するAI時代特有のグレー経済圏が形成されつつあります。ChinaTalkが2026年5月に公開した調査では、この市場が学生や個人開発者だけでなく、企業やアプリ開発者、再販業者にまで広がっている実態が報告されています。

🚧 なぜ中国ではClaudeを直接利用できないのか?
背景にあるのは、米中間で強まるAI技術をめぐる安全保障上の対立です。Anthropicは中国をClaudeおよび商用APIの対応地域に含めておらず、さらに2025年9月には規制を強化。中国など非対応地域に本社を置く企業から直接・間接に50%超を保有されている組織について、海外法人であってもサービス提供を制限する方針を発表しました。海外子会社を設立してClaudeへアクセスする抜け道まで塞ぐ狙いがあります。さらに2026年には一部ユーザーを対象として本人確認も導入され、政府発行の顔写真付きIDとライブセルフィーを使った認証が行われるようになりました。Anthropicはこれを不正利用防止、利用規約の執行、法的義務への対応などを目的とする措置と説明しています。
ところが、アクセス制限を強化するほど、それを迂回する市場も高度化しています。その代表格が「中转站」です。仕組み自体は単純で、中国の利用者とAnthropicの間に海外サーバーを置き、利用者から届いたAPIリクエストを中转站が代理で送信します。利用者から見ればAnthropicと直接契約する必要がなく、人民元で料金を支払えるサービスも存在します。しかし一般的な正規APIアグリゲーターと決定的に違うのは、サービス提供元との正規契約やデータ管理の透明性が保証されない場合があることです。さらに中国側にも生成AIサービスの規制があり、2026年4月末時点では868の生成AIサービスが国家インターネット情報弁公室(CAC)への备案(届出)を完了し、既存モデルをAPIなどで利用する530のアプリ・機能も登記されています。つまり中国国内でも生成AIサービスは制度化が進んでおり、無届けの中转站は正規AIサービスとは別の領域に存在します。

💰 なぜ公式価格の10%でClaudeを提供できるのか?
最も不可解なのが価格です。通常なら、Anthropicから仕入れたAPIを転売すれば公式価格より安くするほど利益が減ります。それなのに、一部の中转站では公式料金を大幅に下回る価格が成立しています。ChinaTalkは中国で使われる「一魚三吃(一匹の魚を三度食べる)」という表現を用いて、この収益構造を説明しています。単純なAPI転売だけではなく、一つのアクセス資源から複数の方法で利益を取り出すことで価格競争力を作っているという考え方です。
主に指摘されている仕組みは次の3つです。
- ① アクセス枠の裁定取引:無料クレジット、未使用枠、企業・教育向け契約、定額プランなどを組み合わせ、通常の従量課金より低コストでAIアクセスを確保する。
- ② モデルやトークンの不透明化:高性能モデルを指定しても安価な別モデルへルーティングされたり、キャッシュが効かず同じコンテキストを何度も送信することで、見かけ上安い単価でも総消費量が増えたりする可能性がある。
- ③ 利用ログの価値化:ユーザーのプロンプト、AIの回答、コード、ツール呼び出し、修正履歴などを中継サーバー側で取得できるため、それ自体が価値あるデータ資産になり得る。
特に③は重要です。Claude CodeのようなコーディングAIでは、単なる質問文だけでなく、実際のソースコード、リポジトリの構造、設計判断、エラー、AIが提示した修正、人間が採用した最終結果までAPI通信に含まれる可能性があります。これらは通常のWeb文章とは異なり、「人間が実際の仕事でAIをどう使い、どの回答を正しいと判断したか」を含む高品質なデータになり得ます。ただし、ChinaTalk自身も、中转站によるログの体系的な販売やAI企業への供給がどの程度行われているかについては未検証の部分があるとしています。ここは「実際に大規模転売されている」と断定するより、「そうした経済的インセンティブと技術的可能性が存在する」と区別する必要があります。

🤖 Anthropicが警戒する「AI蒸留」と2万4,000件の不正アカウント
こうしたプロキシ問題を国家安全保障レベルへ引き上げているのが「蒸留(Distillation)」です。蒸留そのものは、大型AIの出力を利用して小型AIを訓練する一般的な技術であり、それ自体が不正なわけではありません。しかし他社の商用AIへ大量アクセスし、その能力を自社モデルへ移植する目的で利用すれば、利用規約やアクセス制限をめぐる重大な問題になります。Anthropicは2026年2月、DeepSeek、Moonshot AI、MiniMaxによる大規模な不正蒸留キャンペーンを検出したと発表。約2万4,000件の不正アカウントを通じ、Claudeと1,600万回以上のやり取りが行われたとしています。Anthropicによれば、こうしたネットワークでは多数のアカウントへリクエストを分散することで、本来なら一つの利用者として検出できる大量アクセスを細分化していたとされます。
ここで中转站の存在が厄介になります。AI企業から見えるのは最終利用者本人ではなく、中継サーバー・代理アカウント・代理決済という複数の層だからです。一つのアカウントを停止しても別のアカウントへ切り替えられ、一つの中转站が閉鎖されても、アカウント供給業者や顧客が残っていれば別サービスが登場できます。これは違法ストリーミングや不正決済などのグレー市場にも見られる「モジュール化された供給網」に近く、運営者一人を排除しても市場そのものが消えにくい構造です。Anthropicが2025年の地域制限強化に続き本人確認まで導入した背景には、単純なIPアドレス規制だけではこうした代理アクセスを十分に識別できないという事情があります。

⚠️ 安いAIの代償は「自分のデータ」かもしれない
中转站の最大のリスクは、アカウント停止ではなく機密情報の流出かもしれません。APIプロキシは技術的にユーザーとAIモデルの間に位置するため、通信内容を中継する過程でプロンプトや回答へアクセスできる立場になります。企業が社内コード、顧客情報、未発表製品、APIキー、データベース構造などをClaude Codeへ送れば、信頼できない中継事業者にも同じ情報が渡る可能性があります。「公式料金の10%」という価格だけを比較するのではなく、残り90%を何で支払っているのかを考える必要があります。さらに本人確認が厳格化すれば、海外電話番号、決済手段、本人確認情報などへの需要も高まり、AIとは本来関係のない認証情報市場と接続するインセンティブが生まれます。ChinaTalkはこうした市場がSMS認証、アカウント取引、不正カード、生体認証情報などを扱う周辺市場と接続する危険性を指摘しています。
この問題はAnthropicだけに限定されません。OpenAIもAPIの提供地域を定めており、非対応地域からサービスへアクセスしたり、非対応地域へアクセスを提供したりした場合にはアカウントが停止・ブロックされる可能性があると明記しています。つまり、高性能AIが国家・地域単位で提供制限されるほど、「利用したい人」と「提供したくない企業」の間に価格差とアクセス格差が生まれ、その差を埋める仲介市場が成立しやすくなります。今後AI企業がKYCをさらに強化すれば不正アクセスのコストは上がるでしょうが、その一方で認証情報そのものの市場価値も上昇するという「いたちごっこ」が続く可能性があります。

🔍 まとめ:中转站が示す「AIアクセス規制」の新たな難題
中国の中转站市場は、単なる「Claudeを安く使う方法」ではありません。地理的アクセス制限、高額なAI推論コスト、米中AI競争、本人確認、API転売、データ価値が交差した結果として生まれた新しいグレー市場です。Anthropicが約2万4,000件の不正アカウントを使った大規模蒸留を報告したことからも、プロキシ経由のアクセスはAI企業にとって現実的な問題になっています。一方、中国では正規の生成AIサービスの备案・登記も急速に進み、2026年4月末には备案済みサービスが868件に達しました。今後の焦点は「国境でAIを遮断できるか」だけではなく、誰がAIを利用しているのかをどこまで追跡できるのか、そしてアクセス規制を強化することで生まれる地下市場をどう抑えるのかへ移っていきそうです。
📚 参考・出典
- ChinaTalk「How to Buy Cheap Claude Tokens in China」 — 中转站市場の構造、価格形成、利用ログをめぐる調査
- Anthropic「Detecting and preventing distillation attacks」 — DeepSeek、Moonshot AI、MiniMaxをめぐる約2万4,000件の不正アカウントと蒸留攻撃の調査
- Anthropic「Updating restrictions of sales to unsupported regions」 — 2025年9月に強化された中国など非対応地域に関連する企業への提供制限
- Claude Help Center「Identity verification on Claude」 — 政府発行ID・ライブセルフィーを利用した本人確認
- Anthropic「Supported countries & regions」 — ClaudeおよびAPIの対応地域
- 中国 国家インターネット情報弁公室(CAC)2026年3~4月生成AI备案情報 — 中国国内の生成AIサービス备案・登記状況
- OpenAI「API Supported Countries and Territories」 — APIの地域別提供ポリシ
