1845年から1849年にかけて、アイルランドを襲った“ジャガイモ飢饉(Great Famine)”。
この未曾有の大災害により、約100万人が餓死または病死し、さらに150万人以上が国外に移住するという歴史的な惨事が起きました。単なる作物の不作が引き起こしたものではなく、**社会構造・政治的無策・偏見が複雑に絡み合った「人災」**とも言える悲劇です。
本記事では、海外メディア「The New Yorker」の書評をもとに、ジャガイモ飢饉の背景とその深層を読み解きます。

🥔 飢饉の引き金:ジャガイモ疫病の流行
19世紀半ばのアイルランドでは、特に貧困層の人々にとってジャガイモが主食であり、人口の4分の1(約270万人)が日々の食事をジャガイモに依存していました。
しかし、1845年にヨーロッパ全土で流行した**ジャガイモ疫病(Phytophthora infestans)**がアイルランドにも広がり、ジャガイモ作物の大半が腐敗。これにより食料供給が一気に崩壊しました。

🏰 土地を支配していたのは誰か?アイルランドの不平等な土地制度
飢饉の背景には、極端に偏った土地所有構造が存在していました。
- アイルランド全土の約80%の土地を、わずか4000人未満の地主が所有。
- 彼らの多くは、イングランドに住むプロテスタントの子孫であり、アイルランドにはほとんど住んでいませんでした。
- 地主はアイルランドの小作人から非常に高額な地代を徴収し、小作人はさらに土地を細分化して労働者に貸す「悪循環」の構造。
こうした制度は、ジャガイモのように生産性が高く、狭い土地でも栽培可能な作物が安定供給されて初めて成り立つものであり、疫病によって一気に崩壊してしまいました。

🚢 食料はあったのに…なぜ人々は飢えたのか?
実は、当時のアイルランドでは…
- 330万エーカーの穀物栽培地
- 250万頭の牛、220万頭の羊、60万頭の豚を飼育
という豊富な農畜産物が生産されていました。しかし、それらのほとんどがイギリス本土へ輸出され、アイルランドの庶民の口に入ることはほとんどなかったのです。
つまり、**「食料はあったのに人々は飢えた」**という状況が発生していたのです。
🏛 イギリス政府の対応:救済の名を借りた放任
第1段階:トウモロコシの輸入(ロバート・ピール首相)
ピール首相は、アメリカからトウモロコシを輸入。しかし、その食料は有償で販売されました。
「無償提供はアイルランド人の怠惰を助長する」といった偏見が背景に。
第2段階:公共事業への転換(ジョン・ラッセル政権)
自由市場主義に基づいたラッセル政権は、救済食料の配布を停止し、代わりに公共事業を通じた労働による救済策を導入。
- しかし、賃金は極端に低く
- 飢餓と病気で衰弱した人々には過酷な労働環境
多くの人が、働けども飢えから逃れられない状況に追い込まれました。

🏚 追い打ちをかけた地主の行動
飢饉の最中、多くの地主は土地を牧草地に変えるために、小作人を強制立ち退きさせました。これにより住む場所も失った人々は、最終的に移住を選ぶしかありませんでした。
- アメリカ・カナダへ:約150万人
- イギリスやオーストラリアへ:数十万人
この移民の波によって、現在のアイルランドの人口は、1841年の水準よりも少ないままです。

🗣 アイルランド語の衰退と英語化
飢饉の影響は、言語文化にも及びました。
- 飢饉以前:アイルランド語を話す人々が多数
- 飢饉後:社会構造の変化や移住により、急速に英語化が進行
文化的アイデンティティまでもが揺らぐ結果となりました。
😡 偏見と差別が飢饉を拡大させた
当時のイギリス社会では、アイルランド人に対して以下のような差別的認識が浸透していました。
- 「アイルランド人の貧困は道徳的欠陥のせい」
- 「ジャガイモに頼る彼らは怠惰で努力を嫌う」
- 「飢饉はアイルランド人を労働者として“鍛える”教訓になる」
こうした思想が、飢饉に対する効果的な支援を妨げた要因とされています。
🇺🇸 飢饉の記憶と「ジェノサイド」としての再評価
一部のアイルランド系アメリカ人の働きかけにより、ニューヨーク州ではこの飢饉を「ジェノサイドに類似する人権侵害」として教育することが義務化されています。
🧠 まとめ:ジャガイモ飢饉は“自然災害”ではなく“社会災害”
この悲劇は、単に「作物が育たなかったから」という話ではありません。
構造的な貧困、政治的怠慢、そして深く根付いた偏見が、何百万という命を奪ったのです。
🍀 「食料の公平な分配」と「社会的包摂」なくして、いかに技術があっても人は救われない。
歴史が語る、重要な警鐘です。
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